レジデント・医員募集

川島慶之(東京医科歯科大学助教・平成11年入局)

耳鼻咽喉科・頭頸部外科の明日を担う医学生/研修生の皆さんへ

1999年4月に東京医科歯科大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科に入局し、早14年が経ちましたが、入局当初のことは昨日のことのように思い出されます。 皆さんにどんな明日が待っているのか、一例として私のこれまでの経験をお話します。

私が入局したのは臨床研修制度が始まる前でしたので、大学卒業および医師免許取得後すぐに本医局に入局となりました。入局当初は教科書と言えば学生時代のバイブルXXX%耳鼻咽喉科しか持っていませんでしたので、全てが新鮮でした。外来診療に関しては、 喜多村教授、岸本教授という日本を代表する耳鼻咽喉科医・頭頸部外科医の二人に加え、沢山の優秀かつ個性豊かな先輩方の診察を見せて頂きました。医師として駆け出しのフレッシュな時期に、医療知識だけでなく、偉大な先輩達の患者さんに接する態度、病気に立ち向かって行く姿勢から学んだことは私にとって今もかけがえのない財産となっています。研修医時代は、頭頸部外科手術では握力、背筋力、そして忍耐力が養われました。耳科手術に関しては、今となってはもったいない事をしたと後悔していますが、モニターに写っている「何か」を見ながらそれが何なのか理解できないままに終わってしまいました。 週一回は教授が直々指導に当たる勉強会があり、耳鼻咽喉科の臨床の基礎知識を習得しました。臨床業務が片付いたころ、ちょいワルの先輩に息抜きに連れて行って戴き、社会性と肝力が養われました。

楽しい大学での研修2年間が終わると関連病院に出て一般耳鼻咽喉科を学びます。一人前の医者として扱われ始める時期でもあり、多くの医師(特に男子)はモテキに突入します。私は賛育会病院という周産期・小児医療を中心に行う歴史ある病院に勤務することになりました。医者3年目にして一人での診療をまかされたプレッシャーもあり、患者さんと教科書を見比べながら必死に勉強した時期でした。手術に関しては大学から指導に足を運んで戴き、頭頸部腫瘍を中心に多くの手術を経験しました。また、当初はまだ走りであった新生児スクリーニング検査を通じて乳幼児の診療に関しても多くの経験を積むと共に、初めて自ら論文を書く機会も得ました。翌年は中野総合病院に移り、経験豊かな指導医からマンツーマンで指導を受け、耳鼻咽喉科全般につき多くの事を学びました。

関連病院での2年間の研修の後2003年に再び大学に戻り、およそ5年間、医員、助教として働きました。これまでの仕事の中心であった診療に、後輩の指導・研究による医学の進歩への貢献という大きな仕事が加わりました。大学での仕事はそれなりに多忙でしたが、やりがいのあるものでした。臨床研究としては、頭頸部外科領域では当初はまだメジャーにはなっていなかったFirst bite syndromeと呼ばれる頸部手術の術後合併症をまとめる仕事を、耳鼻咽喉科領域では全国規模の急性感音難聴患者の疫学調査をまとめる仕事をいくつか戴きました。また、遺伝性難聴患者の平衡機能を調べた論文で学位を戴きました。

2008年から3年間、米国国立衛生研究所への留学の機会を得ました。喜多村教授に勧められるままにとりあえず行ってみる事にしたのですが、私にとっては人生の大きな転機となりました。初めのおよそ1年半は結果らしい結果も出せず胃の痛くなる日々でしたが、少しずつ結果が出始めると人類の未知の領域を明らかにするという基礎研究の醍醐味に触れ、胸躍る日々も経験しました。大げさに聞こえると思いますが、地球の裏側で、まともに言葉も通じない異国人に囲まれ、これまでの臨床医の仕事とは無関係な基礎研究に3年間も没頭していると多少なりとも人生観・世界観も変わります。3.11の際には母国の危機に胸を打ち拉がれるとともに、まるで自分の事のように心配してくれる沢山のアメリカ人に胸が熱くなりました。

帰国後、2年間は土浦協同病院という地域中核病院で耳鼻咽喉科科長に就任させて戴きました。臨床医としては3年以上のブランクがあったこともあり、大病院で科長を務める事にいささか不安もありましたが、基礎研究で養われた論理的思考能力が臨床に於いても大事である事に気付くと、いつしか不安も消えて行きました。また月に数回は両教授に大学から手術指導に足を運んで戴き、手術の勉強もさせて戴きました。

2013年8月に大学に復帰し現在に至ります。大学病院では一般診療、研究に加え後輩の指導が私の大事な仕事になっています。今後も、これまで根気強く指導してきてくれた先輩方への感謝の念を忘れず、耳鼻咽喉科・頭頸部外科の明日を担う医学生/研修生の指導に当たって行きたいと思います。やる気溢れる若い先生の入局をお待ちしています。

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